大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福井地方裁判所 昭和52年(わ)214号 判決

主文

被告人延岡朝夫を懲役一五年に、被告人波谷守之を懲役二〇年に各処する。

未決勾留日数中、被告人延岡朝夫に対しては五〇〇日、被告人波谷守之に対しては三五〇日を、それぞれその刑に算入する。

被告人延岡朝夫から押収してあるけん銃二丁(昭和五二年押第三七号の一、三)、実包八発(うち二発は試射済((同号の二、四)))、空薬きよう二個(同号の五)及び弾丸二個(同号の九、一一)を没収する。

訴訟費用中、証人堂山衛に支給した分はその二分の一ずつを両被告人の各負担とし、その余は被告人波谷守之の負担とする。

理由

(被告人らの身上及び犯行に至る経緯)

被告人波谷守之は、神戸山口組系菅谷組傘下波谷組を結成し、自ら同組組長の地位にあるもの、同延岡朝夫は、同組組員であるが、福井県内を根拠地として右菅谷組の傘下にあつた暴力団川内組が、昭和五二年一月、右菅谷組から離反し、一方もと川内組組員坪川三彦を中心に結成された右菅谷組傘下浅野組内共進会が福井市内に事務所を開設したのに対し、同年三月これが右川内組組員によつて襲撃されたことなどがあつて、右川内組と右菅谷組の傘下にある各組との間に反目感情が激化していつたところ、被告人延岡は、昭和五二年四月一日被告人波谷から呼び出しを受け、同日午後七時頃、大阪市阿倍野区播磨町一丁目一四番二九号所在の同人方一階応接間において、同人より「川内をやつてくれ、お前の他にもう一人つけるがお前がリーダーとなつてやつてくれ」と右川内組組長川内弘(当時五三歳)を殺害することを命じられてこれを応諾し、右川内を殺害することを決意した。ところが同月四日ころの午後七時ころ、右浅野組若頭補佐首藤新司から呼び出しを受け、同市南区二ツ井戸町のホテル「レインボー」において同人と会合したところ、同人も右川内殺害に加担することになつた旨告げられ、ここに、同人と協力して右川内を殺害することを共謀し、その際、右共進会側との連絡は首藤においてなすことを決め、同月五日頃の夕方には右被告人波谷方応接間において、同人より右川内殺害に使用するためのけん銃二丁とその実包一二発を受け取り、同月八日夜、共犯者首藤及び被告人延岡をおじきと呼んで慕い、そのただならぬ様子から付いてきた右波谷組内藤島組組員田中政治の両名とともに大阪を出発し、翌九日早朝、金沢市内の右共進会石川県支部長加納一恵宅に赴き、翌九日夜、投宿先とした福井県坂井郡三国町の旅館「あらや」において、共犯者首藤、同田中、右共進会石川県支部組員中川徳治との間で、被告人波谷から手渡された右けん銃二丁とその実包一〇発(二発は既に試射)及び共犯者中川の用意したけん銃(三八口径)一丁とその実包五発を用いて右川内を殺害する方法を謀議し、その結果、右川内が日頃馴染みにしている福井県坂井郡三国町梶五字菰田二〇番地所在の珈琲専門店「ハワイ」こと西浦広美方に来店した機会をねらつて同人を射殺することとし、その役割として、被告人延岡が同店入口扉をあけ、共犯者中川、同田中、同首藤の順に同店内に入り、共犯者中川において同人所携のけん銃で右川内を殺害し、共犯者首藤においてこれを確認すること等を取り決め、翌一〇日、一一日と右川内殺害の機会を窺いながら、一一日夕方には投宿先を同郡金津町の旅館「紫水館」に変え、翌一二日朝、被告人波谷から手渡されたけん銃二丁は被告人延岡と共犯者田中とが一丁ずつ持つこととし、共犯者首藤、同田中、同中川との間でそれぞれの役割を再確認するとともに、右川内にはボデイーガード数名が取り巻いていることが予測されることから、右川内殺害の目的を遂げて無事逃走するため、場合によつてはボデイーガードを殺害するに至るのも止むを得ないとの未必的殺意を暗黙のうちに通じあい、翌一三日午後零時三〇分頃、右三名とともに同店へ向かつた。

(罪となるべき事実)

第一  被告人延岡朝夫は、

(一)  共犯者首藤、同田中、同中川らとともに、所携の前記けん銃三丁及び実包一五発を用いて、右川内弘を殺害すべく共謀し、更に右目的を完遂し、現場から逃走するに際し、右川内の身辺を護衛する者からこれを阻止された場合には、その者を殺害するに至るのも止むを得ないとの意思を暗黙のうちに通じたうえ、昭和五二年四月一三日午後一時ころ、右「ハワイ」店前に到り、かねての打ち合せ通り同被告人において同店入口扉をあけると、直ちに共犯者中川、同田中が同店内に飛び込み、

(1) 同店内の入口寄り左側ボツクス席で入口に背を向けて腰をかけていた右川内の姿を認めるや、やにわに共犯者中川において、同人の身体をめがけて所携の実包五発入りの回転弾倉式けん銃(三八口径)を三発発射し、その右背部、左大腿部に、共犯者田中において、同じく右川内の身体をめがけて所携の実包五発入りの回転弾倉式けん銃(三二口径)を一発発射し、その右背部にそれぞれ命中させて、胸部及び腹部盲管銃創左上大腿部貫通銃創の傷害を負わせ、よつて、同日午後一時一〇分頃、同所において、右川内をして前記胸部及び腹部の銃創により出血死させてその殺害の目的を遂げた。

(2) その直後共犯者田中において、右川内の護衛の任にあたつていた右川内組組員髙嶋弘(当時二四歳)に組みつかれて転倒したため、かねて手筈のとおりこれを排除し一刻も早くその場から逃走すべく、同人を死に至す危険があることを認識しながらそれも止むを得ないと、所携の右けん銃の銃口を同人の右肩部に接近させて一発発射してその右背部に命中させ、よつて、同人に全治約一〇ケ月間を要する右胸部貫通銃創等の傷害を負わせたが、殺害するに至らなかつた

(二)  共犯者首藤、同田中、同中川と共謀のうえ、前記第一の(一)の各犯行の用に供する目的のため、前同日午後一時ころ、法定の除外事由がないのに、右「ハワイ」店内において、被告人延岡が回転弾倉式けん銃(三八口径)一丁(昭和五二年押第三七号の一)とその実包五発(同号の二)を、共犯者田中が回転弾倉式けん銃(三二口径)一丁(同号の三)とその実包五発(同号の四、五、九、一一)を、共犯者中川が回転弾倉式けん銃(三八口径)一丁(同号の六)とその実包五発(同号の七、八、一〇、一二、一三)を各携帯して、これを共同して所持した

第二  被告人波谷守之は、

(一)  右川内弘の殺害を企て、昭和五二年四月一日午後七時ころ、前記自宅に輩下の組員である被告人延岡を呼び寄せ、一階応接間において、同人に対し、「川内をやつてくれ、お前の他にもう一人つけるがお前がリーダーとなつてやつてくれ」と申し向け、右川内を殺害することを命令し、よつて被告人延岡をして右殺害の決意をさせたうえ、ついで同月五日ころ、前同所において、被告人延岡に対し、回転弾倉式けん銃(三八口径)一丁とその実包六発及び回転弾倉式けん銃(三二口径)一丁とその実包六発を手渡し、判示第一の(一)(1)の犯行をなさしめて、右川内殺害の目的を遂げ、もつて殺人の教唆をした

(二)  前同月五日ころ、法定の除外事由がないのに、前記自宅において、回転弾倉式けん銃(三八口径)一丁(昭和五三年押第四号の一)とその実包六発(同号の二はその一部)及び回転弾倉式けん銃(三二口径)一丁(同号の三)とその実包六発(同号の四、五、九、一一はその一部)を所持した

ものである。

(証拠の標目)(省略)

(一)  被告人波谷の判示教唆行為認定の理由

(1) 川内弘殺害の共同実行意思形成に関する被告人延岡、共犯者首藤、同中川の各供述の信ぴよう性について

右川内殺害の共同実行意思の形成につき、共犯者中川の検察官に対する供述調書(昭和五二年五月三日付(イ))によれば、同人は昭和五二年四月二、三日ころ被告人延岡に電話で右川内殺害の協力を依頼したというのであるが、そもそも協力依頼の相手方である被告人延岡がこの事実を否定するところであるし(同人の検察官に対する昭和五二年五月五日付供述調書及び被告人波谷に対する殺人教唆等被告事件の第二回公判調書中の証人延岡の供述部分)、また、中川の右検察官調書の供述によれば、右両名は昭和四八年ころに一度会つたことがあるというのであるが、それもにわかに信用できないことからしても、右中川の検察官調書の供述内容は到底真実とは考えられないところである。

一方、被告人延岡は、被告人波谷の事件の証人として、当時右川内の言動に憤りを感じていたところ、昭和五二年四月三、四日ころに共犯者首藤から右川内殺害の相談をもちかけられ、同人と意思を相通じた結果、本件犯行に及んだものである旨証言し(被告人波谷に対する殺人教唆等被告事件の第二回公判調書中の証人延岡の供述部分)、共犯者首藤も右延岡の証言に符節する証言を当公判廷においてなしている。しかし、右両名の各証言によつても、当時右両名が右川内に特別な感情を抱く程同人との間に個人的な接触があつたとは認められず、仮に右両名が証言するような悪感情を右川内に対して抱いていたとしても、それがそのまま自己の身を危険にさらし、此迄の安穏な生活をなげうつてまで右川内の殺害を決意せねばならなかつたような事情は全く窺えないのであり、このような右両名に窺われる右川内殺害に対する自発的動機の稀薄さは、殺害現場において、右両名よりはるかに若年であり、しかもけん銃の操作方法も未熟で殺傷沙汰には不慣れな共犯者中川、同田中に右川内の殺害役を委ね、自からは判示のような脇役的な役割しか果たさなかつた一事をもつてしても肯けるのであつて、右両名が自発的、積極的に川内殺害を決意したとは到底認められない状況にある。これらの点や、右両名の福井に向う際の共同行動からして、両名が大阪を出発した四月八日以前に会合を持ち、右川内を共同して殺害することの意思確認が行われたことは事実として認められるにせよ、その会合における話合いの内容は、右両名が証言するようなものでなかつたことは明らかである。

以上のことから、右三名の右川内殺害の共同意思形成に関する供述はいずれも信用できない。

(2) 本件川内組組長殺害事件発生の背景

本件殺人実行行為者の背後における教唆者の有無を検討するにあたつては、当時の菅谷組(及びその下部組織)と川内組との対立抗争という事件の背景を無視することはできないところである。

前掲証拠によれば、川内組はもと菅谷組の傘下にあつたところ、自派内の暴力団が他の組織と抗争事件を起こした際、その解決にあたつた菅谷組が、自派組織に一方的な不利益処分を科したとして同組に反旗を翻えし、同組傘下を脱して神戸山口組の直轄組織に昇格しようとしたため、昭和五二年一月二四日ころ菅谷組長より破門処分を受けたが、その際、右川内組を離れた元同組組員坪川三彦らが、菅谷組傘下浅野組の支援を受け、反川内分子を糾合して福井市内に暴力団共進会を結成するに至り、同年三月一日事務所開きを行つたところ、これに憤慨した川内組組員二名がけん銃を持つて共進会事務所に乱入し、以来、本件発生時まで川内組と共進会、さらにはそれを支援する菅谷組傘下組織との間に、まさに一触即発の状態が続いていたことが認められる。

本件のこのような背景を念頭にして、実行行為に加担した被告人延岡、共犯者首藤、同中川(なお、共犯者田中は、被告人延岡の言動に不審を抱いて付いてきたにすぎない者であることが証拠上認められる。)の所属組織を眺めれば、いずれも菅谷組傘下組織に所属する反面、被告人延岡、共犯者首藤の前記各証言によれば、共犯者中川と被告人延岡、共犯者首藤との間には本件前に面識はなく、被告人延岡と共犯者首藤も平生さ程の親密な交流があつたとも窺えないところから、右三名が右川内殺害という目的のもとに結び付いてゆくためには、菅谷組傘下組織の組織的な意思、差配を抜きにしては考えられず、しかも、前記のような被告人延岡、共犯者首藤の本件犯行に対する消極的姿勢に照らせば、右両名に加えられた働きかけは、組織上層部からの命令的なものであつて、それ故にこそ、右両名はこれに従い行動したものと考えられるのである。

(3) 被告人延岡の各供述について

ところで、被告人延岡は、自己に対する教唆者について、起訴時までの捜査段階において、共犯者首藤から話しを持ちかけられた旨供述していた(前掲昭和五二年五月一日付検察官に対する供述調書)が、起訴後、自己の殺人等被告事件の第一回公判期日(昭和五二年六月二八日)までの取調べにおいて、検察官に対し、被告人波谷より右川内殺害を命令された旨供述し(昭和五二年六月二〇日付、同月二一日付各検察官に対する供述調書)、その後は、再び前記のように共犯者首藤から相談を持ちかけられた旨の供述を繰り返すようになつた。

これに対し、被告人波谷は、捜査段階から公判に至るまで、一貫して被告人延岡に対する右川内殺害教唆の事実を否認していることから、同人の教唆の事実を証明する直接の証拠は、右被告人延岡の起訴後の二通の検察官調書のみとなつており、他の情況証拠によつては、被告人延岡に対する教唆者(これも一定の範囲の者に限定されることは前述のとおり)の存在する事実は肯定しうるにしても、それが被告人波谷であることまでをも証明するに足りるものとは言えないことから、結局、被告人波谷による教唆行為の有無は、被告人延岡の右二通の検察官調書の信用性の評価如何により決せられるものと考えられる。

(イ) 右二通の検察官調書の証拠能力

被告人両名の弁護人は、右二通の検察官調書は、〈1〉被告人延岡の起訴後の取調べによつて作成されたものであること、〈2〉本件捜査担当者堂山衛警部補が被告人延岡に対する裁判所の接見禁止決定を無視し、同人とその妻郁子を三度に亘つて面会させたうえ作成した違法な司法警察員調書(昭和五二年五月一六日付)を基礎に作成されたものであること、〈3〉右堂山警部補が被告人延岡とその妻郁子とを違法に面会させたり、教唆者の存在を自供することによる刑の減軽を示唆する等して被告人延岡に心理的圧迫を加えたうえで作成したものであることを理由として証拠能力がない旨それぞれ主張し、また、被告人波谷の弁護人は、右二通の検察官調書は、取調べ状況及び調書の記載内容自体からして、被告人延岡の公判廷での証言と比較して刑事訴訟法三二一条一項二号が要件とする特信情況は認められないことを理由に右法条による取調べは許されない旨主張するので、右二通の検察官調書の証拠能力について検討する。

ところで、起訴後において捜査官が当該公訴事実について被告人を取調べることは、現行刑事訴訟法の当事者主義・公判中心主義の訴訟構造に徴し、できるだけこれを避けなければならないのであるが、捜査の進展情況から止むを得ずそれを必要とする場合も否定し難く、このような場合、被告人の防禦権を実質的に侵害するおそれのない範囲内において、任意捜査としての被告人の取調べは許されるものというべく、右範囲内の取調べに基づき作成された供述調書の証拠能力は肯定されるものである。本件殺害事件は、組織暴力団の勢力争いを背景にしていたため、当初より組織暴力団上層部の関与している疑いが生じていたが、被告人延岡は起訴時に至るまで本件犯行の動機、使用けん銃の購入先、資金の調達方法等、教唆者の存在の有無と密接に関連する事柄について不合理な供述をなし、しかも起訴直前になつてその供述内容に変化の兆しがみえていたこと、事案自体も判示のように複雑重大なものであつたことから、単なる実行行為者の犯行のみでなく事案全体の解明が迫られていたこと等から、起訴後においても事案の真相を明らかにするため被告人延岡を取調べる止むを得ない情況下にあつたものであり、しかも、本件の被告人延岡の起訴後の取調べは第一回公判期日以前になされ、取調べの対象も、被告人延岡の公訴事実そのものというよりは背後関係の追及、即ち、指揮命令者・教唆者の存在の有無に主眼が置かれていたものであり、背後関係の取調べが被告人延岡の本件川内殺害に至る動機と密接に結びつき、公訴事実と全く無関係なものとは言えないにしても、むしろ、その後起訴された被告人波谷の公訴事実に対する取調べとしての性格を多分に有していることや、この取調べによつて被告人延岡の弁護人との接見交通権その他の実質的防禦権が侵害された疑いは全く窺えず、また、その取調べの態様も任意捜査の範囲内のものと認められることから、本件における被告人延岡の起訴後の取調べは、現行刑事訴訟法のもとにおいても許容される範囲内のものと解される。

つぎに右二通の検察官調書は違法手続のもとに作成された昭和五二年五月一六日付司法警察員調書の瑕疵を継受し証拠能力が認められないという主張であるが、堂山警部補、髙木検察官、被告人延岡、延岡郁子の各証言を綜合すると、結論的には、堂山警部補が取調べにあたり、単なる人道的な配慮以上の一定の捜査目的、即ち、教唆者に関する供述を得る目的をもつて、裁判所による接見禁止の一部解除の手続をとることなく、違法に、接見禁止中であつた被告人延岡にその妻郁子を接見させた事実は否定し難く、しかも、被告人波谷の教唆事実につき供述のなされている堂山警部補作成の右五月一六日付司法警察員調書は該日時に作成されたものであるかどうか疑問が残るというべく、結局右五月一六日付調書は違法な手続により作成されたものとしてその証拠能力は否定すべきものである。

ところでこのように、違法な手続によつて収集された証拠を前提として収集された証拠の証拠能力については、前提となる証拠の違法が継受されるのが原則と解されるけれども、証拠能力否定の根拠となつた手続の違法性の大小と、右違法がその後の手続によつて収集された証拠に与えた実質上の影響力の大小とのかね合いいかんによつては、例外的に前提となる証拠の違法性がしや断される場合もあるものと考えられる。そして、右二通の検察官調書は、堂山警部補の作成にかかる右五月一六日付供述調書の記載内容を前提として、髙木検察官が被告人延岡より、被告人波谷の教唆事実の供述を求めこれを録取したものであることから、右五月一六日付の供述調書の違法を継受するか否かの検討を必要とするが、右五月一六日付供述調書の違法理由の一つである作成日付の正確性は右調書固有の問題であり、また、堂山警部補による接見禁止の一部無断解除の点については、右無断解除が捜査本部ないしは髙木検察官の事前の了解を得ることなく、まつたく堂山警部補一個人の意思に基づいて行われたもので、髙木検察官は右接見解除の事実を知らぬまま、被告人延岡からの供述を録取し、右二通の検察官調書を作成するに至つたものであること、同検察官の取調べの方法自体には格別非難されるべき点もなく、被告人延岡が同検察官に対し、従前の供述に拘泥し、それを変更することが客観的に困難な状況にあつたとは認められないこと等の諸点に照らすと、右二通の検察官調書は、右五月一六日付供述調書の違法をしや断しているものと考えるのが相当であり、加えて、右のような取調べ状況からしてその任意性を疑わせる事情も全く認められない。

また、右二通の検察官調書の特信情況の有無について検討すると、右各供述調書の作成情況における特信情況を疑わせる事情として、被告人延岡は、取調官の髙木検察官から背後関係について厳しく追及され、本件殺害事件は共犯者首藤から相談を受けたものであるといくら言つても信用してもらえず、止むなく被告人波谷から教唆された旨供述したものと公判廷で証言するのであるが、公判廷におけるこの証言は、自己の所属する波谷組の組長である被告人波谷及び多数の組関係傍聴人の面前のものであつて、被告人波谷に不利益な事実を陳述し難い情況下のものであり、このことは被告人延岡の証言態度からは勿論、自己の供述に基づき作成された検察官調書の内容(被告人波谷の教唆事実)に関し、不自然なまでに記憶がない旨の証言を繰り返していることからも裏打ちされる。しかも、被告人延岡の本件犯行に至る動機、使用けん銃の購入先、所持金の出所等の内容については到底納得できない唐突な証言に終始し、極力被告人波谷に嫌疑が及ぶのを避けようとする態度が窺われ、被告人延岡の当公判廷における証言に信を措ける事情は極めて少ない。

他方、右二通の検察官調書の作成の際には、被告人延岡が涙を流しながら供述するに至つたことは被告人延岡の自認するところであり、これらの状況を比較衡量すれば、右二通の検察官調書に具体的に信用すべき特別の情況が存すると認めるのが相当である。

以上の理由から被告人延岡の右二通の検察官調書は被告人両名の関係において証拠能力が認められるものである。

(ロ) 右二通の検察官調書の信用性

右二通の検察官調書の概要は、被告人延岡が「昭和五二年四月一日昼間、自宅で寝ていると、内妻郁子が被告人波谷からの電話を取りつぎ、これに応対すると、同人から午後七時に同人宅に来るよう告げられた。右時刻ころに同人宅を訪ずれると、応接間で同人が待つており、そこで同人から『死んでくれへんか。川内をやつてくれんか。』と川内を殺害して欲しい旨突然言われ、驚きつつも止むなくこれを承諾すると、同人から『お前の他にもう一人つけるが、お前がリーダーとなつてやつてくれ、誰が行くか、また、何時行くか決つたら後から連絡する』旨告げられ、そのまま帰宅し、その晩からやけつぱちになつて外で酒を飲むようになつた。そうこうしているうちに、同月四日ころの夕方首藤から『話があるので会つて欲しい』旨の電話があり、同日夜七時に道頓堀の橋の上で落ち会い、同人の案内によりホテル「レインボー」の一室を借り、そこで同人より『私も兄貴と一緒に福井に行くことになりました』と告げられ、その際、福井には早く行くことも促され、一応出発の日時は一任されたが、この時自分の手をとつて涙を流す同人を元気づけた。同月一日以来被告人波谷から何の連絡もなかつたため、翌五日昼ころ、同人宅を訪ずれ、寝ている同人を起こし、応接間で同人に『早よう行つた方がいいと思いますが、道具は二丁欲しい』旨告げると、同人から自宅で待つように言われ、帰宅して連絡をまつていると、暫らくして被告人波谷から電話ですぐ来るよう命じられ、再び同人宅を訪ずれると、応接間に同人一人がおり、応接セツトの上にはけん銃二丁と何か紙にくるんだもの(後に実包一二発と知る。)、帯封のしてある一万円札の一〇〇万円束二個が置いてあつたことから、それが川内組長殺害のために準備されたものと察してこれを受け取り、同人に『八日に行きます。後のことはよろしく頼みます』と告げると同人は『うん頼むぞ』と返事をしたが、このあと帰宅して首藤に電話で八日に行くことを提案し、四月八日午後七時喫茶店「ナイトアンドデー」で落ち会うことにした。」というものである。

右供述内容の信用性については、客観的な情況証拠とも照らし合わせたうえで、その供述内容の合理性を慎重に検討せねばならないところ、先づ右二通の検察官調書は、親分から殺人の教唆を受けたという重大な事案に関するものにしては内容がいささか簡略であり、被告人延岡と同波谷、さらには共犯者首藤との各対話状況も必ずしも逐一再現供述されているとは認められないのであつて、被告人波谷の弁護人も、右二通の検察官調書の供述記載の簡略さを含めて捜査全般の不充分性を指摘するとともに、右二通の検察官調書の記載内容の合理性に種々の疑問を示しているところである。例えば、二丁のけん銃を必要とする理由につき、一丁は共犯者田中のためのものだつた旨の供述が記載されているが、右田中の昭和五二年五月二日付検察官に対する供述調書によれば、同人が被告人延岡の挙動に不審を抱いたのは四月六日ころとなつており、両供述記載の内容に喰い違いが生じているにも拘らず、四月五日の被告人延岡と同波谷のやりとりについてこの点の問い糺しがなく、あるいはもう一人つけるといわれた以上は、そのものとの連絡方法や連絡の有無について話し合いがなかつたのかという点の説明がない等右二通の検察官調書は、必ずしも教唆をうけた前後の状況をすべて説明し尽くした完全なものとは言い難いものである。

しかし、被告人延岡及び延岡郁子の各証言によれば、被告人延岡は、四月二日午前二時ころ、普段とはいささか異なる酔態を示して帰宅し、以後大阪を出発する前日の同月七日まで、右郁子やその他の知人数名を伴つてキヤバレー等で遊興を重ねた事実が認められるのであり、右事実は、四月一日に同被告人に対し、第三者からの右川内殺害の働きかけがあつたことを十分推認させるものであり、また被告人延岡及び共犯者首藤の各証言によつても、四月三日ないしは四日に右両名が会合を持つたことも否定し難い事実である。したがつて、右二通の検察官調書の供述記載内容は、右の教唆を受けた日時、共犯者首藤との会合等被告人波谷からの教唆を受けた事実と密接に関連する客観的事項と符合するものであり(とくに教唆を受けた日時及びその後の飲酒遊興は右二通の検察官調書作成後の補充捜査により裏付けをえられた事実である。)、しかも、これらの事実は被告人延岡が右川内殺害を決意した動機、所属組織を異にする共犯者首藤と結びついていつた過程に合理性を与えるものであるから、その内容において充分に信用できる事実が記載されているものである。もつとも証人延岡郁子は、四月一日に被告人波谷からの電話を取りついだ事実はない旨証言するが、同女は被告人波谷逮捕直後から、殊更検察官の事情聴取を回避していたものであり、この点に関する公判廷での証言をそのまま採用することは出来ないところである。

被告人波谷の弁護人は、右二通の検察官調書の供述内容は、教唆者を他の第三者に置きかえても成り立ち得るものであり、それだけでは教唆者が被告人波谷であることまでの証明はされていない旨主張する。しかし、被告人延岡にとつて、被告人波谷は所属組織の長であり、何かと恩義を受けてきた者であることから、たとえ捜査官の背後関係の追及から逃れたいという心境にあつたとしても、教唆者の名前だけを被告人波谷にすりかえて自己の受けた教唆の事実を供述するということは、その結果当然予測される被告人波谷の逮捕という重大な事態を考えれば容易に理解できないところである。被告人延岡は、右二通の検察官調書作成当時、暴力団から身を引く決意を固め、右二調書作成の際にも涙を流しながら被告人波谷から教唆されたとの事実を述べたことを証言しており、被告人波谷逮捕直後は波谷組関係者からの面接を拒絶し、接見に訪ずれた弁護人に対しても、十分な弁護をしてくれない旨の不満をもらしていたことがその証言から認められ、右二通の検察官調書の作成状況等には、供述内容の信用性を窺わせる多くの事実が存在する。しかも、被告人延岡は、被告人波谷から教唆されたとの供述を翻した後は、いたずらに到底措信しえない共犯者首藤より応援を依頼された旨の供述を繰り返し、右川内殺害に用いたけん銃二丁の購入先等についても、唐突な供述に終始して、その内容において納得できるものが殆どない状況にあり、そのうえ、共犯者首藤は、被告人波谷の逮捕直後、突然それまでの被告人延岡らとの共同意思形成に関する供述を翻し、その後は矛盾に満ちた被告人延岡の供述に符節する証言をなすに至つているのであり、これらは、被告人波谷の被告人延岡に対する教唆事実の隠ぺいを目的としたものと考えざるをえないところである。

以上のような情況に徴するとき、被告人延岡の右二通の検察官調書中の被告人波谷から教唆を受け、けん銃等を手渡されるに至る事実の記載には、高度の信用性が認められるものと考えられ、前記のような右二調書の簡略すぎる点等を考慮しても、なお右供述の真実性に合理的な疑いを抱かせるほどのものは見出せない。

(4) 結論

本件においては、証拠上事案の全貌が解明されたとは言い難い状況にあつて一部未解明な事実が存することは否定できず、共犯者たる被告人延岡の供述も変転しているのであるが、前記のように、被告人波谷が教唆者であることを認めた検察官調書には他の情況証拠に照らし高度の信用性が認められ、右未解明な事実を含め、全関係証拠を綜合しても、右供述に合理的な疑念をさしはさまなければならないような事実は認められないうえ、被告人延岡に対しなされた右川内殺害の教唆は、その結果如何によつては被告人延岡の所属する波谷組を抗争の直接的当事者に陥れ、被告人波谷をはじめ所属組員の生命等に重大な危険を及ぼすものであるだけに、教唆行為は、被告人波谷自身によるか、または同人の了解を得た第三者によらざるを得ないものと考えられ、いずれにしろ被告人波谷の意向を無視したかたちではなしえないところであることを考慮すれば、被告人波谷の判示教唆行為を認める結論に達せざるをえないところである。

(二)  被告人延岡の判示第一の(一)(2)及び判示第一の(二)の各事実認定の理由

被告人延岡らの本件犯行における直接の目的はあくまでも前記川内弘の殺害にあつたもので、同人を護衛する連中を合わせて殺害することまで積極的に企図していなかつたことは関係証拠上明らかであり、かえつて被告人ら自身重刑を科せられるのを恐れ、出来る限り右川内以外の者の身体に危害を加えないよう配慮していることも窺われる(共犯者首藤の検察官に対する昭和五二年五月三日付供述調書等)。

しかし、被告人らは右川内には少ない時でも四、五人、多い時には十数人のボデイーガードがついていたことを認識しており(共犯者中川の検察官に対する昭和五二年五月五日付供述調書等)、右川内殺害の目的を達成し、しかも被告人延岡ら自身が現場から無事逃走しうるためには、当然これらボデイーガードに対処する方策を講じなければならないところ、被告人延岡らの旅館「あらや」等での謀議の過程において練られた右対策の内容としては、右ボデイーガードを殺害してまでも目的を達成するという意思統一が明示的になされたことは認められないものの、右川内を護衛する者も暴力団の組員であり、いかにすばやく目的の実現をはかるにせよ強力な抵抗をうけることは充分予測認識され、また被告人延岡らのこれらを断固排除して右川内殺害の目的を遂げようという強固な意思と当然の自己防衛本能とを考えれば、最悪の場合にはボデイーガードを殺害しても目的を完遂して無事逃走するというボデイーガードに対する未必的殺意を被告人延岡ら各個人が有していたことは、充分推認され、しかも本件の如く狭い室内において数丁のけん銃を用い、護衛者数名が付き添つている暴力団の組長を極く至近距離で殺害するというような計画においては、事態の推移により共犯者のうちの誰かが、止むを得ずボデイーガードをけん銃で殺害するに至るという蓋然性は極めて高度であり、このような状況下にあつては、川内殺害の共謀の過程において被告人延岡ら各自の未必的殺意にとどまらず、暗黙のうちに右未必的殺意の共謀があつたものと認められる。

共犯者田中は右のように右川内のボデイーガードに対して未必的殺意を有していたと認められるところ、犯行現場において前記髙嶋に組みつかれ、これを排除するため咄嗟にけん銃の銃口を同人の肩部に向けて発射し、場合によつては充分致命傷になりうる可能性を持つた行為にでており、現実にも同人は一時血気胸を起こして呼吸困難となるまでの重傷を負つているのであつて、以上の事実からすれば、共犯者田中の右髙嶋に対するけん銃発射は未必的殺意に基づくものであることが優に認められる。

また、被告人延岡のけん銃等の不法所持に関しては、判示のとおり同被告人らが右川内を判示のけん銃三丁、実包一五発を用いて殺害することを共謀している以上、右川内殺害の犯行現場において、自己が現実に握持していなかつたけん銃及び実包についても共謀共同正犯としてその責任を負うことは言うを俟たない。

(法令の適用)

(一)  被告人延岡朝夫

同被告人の判示第一の(一)(1)の所為は刑法六〇条、一九九条に、判示第一の(一)(2)の所為は同法六〇条、二〇三条、一九九条に、判示第一の(二)の所為のうちけん銃三丁を所持した点は包括して同法六〇条、昭和五二年法律第五七号銃砲刀剣類所持等取締法の一部を改正する法律附則三項により同法による改正前の銃砲刀剣類所持等取締法三一条の二第一号、三条一項に、実包一五発を所持した点はいずれも包括して刑法六〇条、火薬類取締法五九条二号、二一条に、それぞれ該当するところ、判示第一の(二)の所為は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重いけん銃所持の罪の刑で処断することとし、所定刑中判示第一の(一)(1)、同(2)の罪につき有期懲役刑を、判示第一の(二)の罪につき懲役刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により刑及び犯情の最も重い判示第一の(一)(1)の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で、同被告人を懲役一五年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち五〇〇日を右の刑に算入することとし、押収してあるけん銃二丁(昭和五二年押第三七号の一、三)、実包八発(うち二発は試射済((同号の二、四)))、空薬きよう二個(同号の五)、弾丸二個(同号の九、一一)はいずれも判示第一の(二)の犯罪行為を組成したもので、犯人以外の者に属しないから、同法一九条一項一号二項本文によりこれを没収し、訴訟費用のうち証人堂山衛に支給した分の二分の一は、刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを同被告人に負担させることとする。

(二)  被告人波谷守之

同被告人の判示第二の(一)の所為は刑法六一条一項、一九九条に、判示第二の(二)の所為のうちけん銃二丁を所持した点は包括して昭和五二年法律第五七号銃砲刀剣類所持等取締法の一部を改正する法律附則三項により同法による改正前の銃砲刀剣類所持等取締法三一条の二第一号、三条一項に、実包一二発を所持した点は包括して火薬類取締法五九条二号、二一条にそれぞれ該当するところ、判示第二の(二)の所為は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重いけん銃所持の罪の刑で処断することとし、所定刑中判示第二の(一)の罪につき有期懲役刑を、判示第二の(二)の罪につき懲役刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の(一)の罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で、同被告人を懲役二〇年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち三五〇日を右の刑に算入することとし、訴訟費用については、証人堂山衛に支給した分の二分の一及びその余の全部を刑事訴訟法一八一条一項本文により同被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

本件は、組織暴力団が互に勢力を延ばし、きつ抗対立する中で、対抗する組織の壊滅を図り、その組長を組織的且つ計画的に殺害したものであつて、様々な暴力団事犯の中でももつとも残虐非道なものというべきである。本件の直接的な契機は、対立組織組員の自派組織への攻撃に対する報復であるが、法を顧みることなく跳梁するこれら暴力団事犯は、近時、善良な市民を無視し、これを巻き込むかたちで多発しており、一般社会を重大な脅威に陥れているものである。本件も、白昼、営業中の喫茶店内に乱入してけん銃を乱射するという無軌道極りない行為に及んでいるのであつて、周辺住民に与えた影響には計り知れないものがある。

被告人波谷は、波谷組組長として組織的な本件殺害計画に加担し、組長としての威力を背景に、自らは手を下さないで輩下の組員にその実行を命令しながら、公判廷においては自己の犯行を否認し、虚偽の供述を繰り返すなど本件に対する反省の念はいささかも窺われない。

被告人延岡は、被告人波谷の命令により止むなく本件に加担したという状況は認められるものの、犯行からの離脱を考えることもなく、唯々諾々としてこれを受け四人の実行行為者のリーダー格として本件に及んだ責任は重大であり、また、公判廷においても被告人波谷をかばう態度に終始し、反省の念は必らずしも充分ではない。

勿論、本件は暴力団同志の抗争から生じたもので、被害者の行状にも一端の責任がないとはいえないが、この点を考慮に入れても、これまで述べてきたような事情を勘案すれば、主文の量刑も止むを得ないところである。

よつて主文のとおり判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例